植松聖 相模原殺傷事件 この事件に思うこと

https://twitter.com/YahooNewsTopics/status/889952692184809472

この事件は重い問題を提起したと思う。

「生産性のない障がい者は社会のお荷物なのか?」

いろんな意見を目にしたけど、実はこう思ってる人は少なくないと思う。

口に出して言わないまでも本音ではこう思っている人は一定数いるんじゃないだろうか。

一見これは理にかなっている(冷淡な合理主義)ようにも思えるけども俺は間違っていると思う。

善人を気取るわけでも弱者に寄り添うというわけでもなく論理的に考えていくとその答えに行きつく。

「障がい者は必要でない」と言う人は俺がよく言う所の「生きながら眠っている人」に定義できる。動物的感覚で生きている人。

ちょっとややこしい話なのでわかりやすい例えを出してみる。

勝ち組負け組のヒエラルキーを学歴で例えてみる。

大卒>中卒

大卒は待遇のいい優良企業に入ることが出来る。中卒はその逆で学歴では最下層の負け組だ。

ならみんな大学に進学するとどうなるか?みんな待遇のいい優良企業に入れて幸せになれるのか?

仮にすべての人間が大学進学できる社会が到来したとする。つまり学歴の最下層の負け組である中卒がいなくなる。

それが実現すると想像してみればわかると思うけど大学の間でのヒエラルキーが出来上がることになる。

下層の大卒が今までの中卒と同じ扱いになる。

大卒>中卒

勝ち組大卒>負け組大卒

に変化するだけ。

勝ち組の大卒と負け組の大卒に分かれる。中卒や高卒がいなくなると大卒の価値が相対的に低くなる。

つまり社会には一定の負け組や弱者はどんなに社会が発展しても必要な存在になってくる。

一定数の敗者、負け組、弱者がいなければ一定数の勝ち組も存在することができない。

このことを意識できる人が実はあまりいない。

障がい者、病人、中卒など弱者や負け組を社会から一掃したら、それに変わる新たなる弱者や負け組がすぐに誕生するだけ。

水槽にグッピーがいる。餌にありつける勝ち組グッピーと餌にありつけない負け組グッピーに分かれるのでそのかわいそうな負け組グッピーだけ別の水槽にわける。そうすると負け組のグッピーの中からさらに勝ち組グッピーと負け組グッピーに分かれる。

このヒエラルキーは社会から消滅することはない。永遠に弱者も敗者も消えることはない。

弱者排除論はこういう視点で考えていくといかに無意味なものかわかると思う。

人間はみんな動物であり強い、弱いという動物的な評価や判断しかできない人が多くこの現象はしばしば見逃される。

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